同様のテーマが、現在ではこのSFよりも遥かに入り組んで巧妙になっている。
死と悲しみのタブー。ミルドレッドは4日前のクラリスの死を“忘れて”いた。死と、それに付随する悲しみのことなど考えたくないのだ。
現代日本ではいつからか、「明るい」ことが脅迫的に礼賛されるようになった。影、闇、悪はタブーで、「ネガティブ」として忌み嫌われ排除される。
そうすれば明るい半分だけが残るのか?そんなことはない。それらはコインの両面だから。
影を排除しようとしてコインの裏側を削り落としても、新たな裏ができるだけで、排除したはずのものはやがて怪物となって反逆してくるだろう。
そうして裏を排除するたびに、コインは薄っぺらくなる。
モンターグの妻ミルドレッドは、まさにそのような姿に描かれている。
テレビや車のスピードという刹那的な娯楽や刺激に溺れているが、娯楽はけっして幸福の代わりにはならない。
そしてこのミルドレッドの姿が、ディストピアにおいては望ましい(都合のよい)人間像でもあるのだ。
本を禁じ、つまりは深く考えを巡らせたり、じっくり生を味わったりすることを許さない社会。
反知性主義のディストピアとして描かれているが、この知性とは、知識クイズに反射的に答えるような知性とは別のことだろう。
クラリスは学校へ行っていなかったし、雨を味わうクラリスの知性はむしろ智恵の領域だ。
華氏451度の世界、まるでどこかの世界にそっくりではないだろうか?
重要なのは「本(つまり紙の)」そのものではなく「内容」だという話が出てくるが....これには私は異論がある。
紙の本でもkindleでも「内容」は同じだ。
重さ、大きさ、紙質、手触り、装丁....
紙の色や匂いは年月を経て変化していく。
古い本は、それを買った店も、どの棚にあったのかも憶えている。
それらを総合したものが本だ。kindleは紙の本より記憶に残りにくいという研究結果もある。
内容以外の違いは何か。
“五感”を使うことと、“個性”が加わることだ。
それは空間を拡げ、本はその人だけの物語空間に含まれていく。
はからずも本の話になった。
本は受け身では読めない。双方向テレビよりも、実はもっと双方向的で、本は自分を映す鏡になる。
以前ミヒャエル・エンデが、「一冊の本を二人の人が読むと、それは違う本になる」と言ったのはそういうことだ。
鏡なら、その前に立つ人が違えば、違う姿を映し出す。
もっとも印刷されて量産された本というものも、かつてはハイテクの産物だった。その前は写本や口伝だったのだから。
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